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去る8月に主のもとに召された小林和夫先生。
今なお私たちに迫ってくる、生き生きと主イエスを証しする先生の言葉をぜひ共に味わいたいと願い、詩篇の説教からの抜粋記事をお届けします。

わが岩、わがあがないぬしなる主よ(詩篇19:14)

御言葉というのは、覚えたり、意味がわかったりではなくて、「付き合い」です。

私たちは思う。「私が私のことを一番よく知っている」と。けれども二十世紀の神学者カール・バルトはこう言うのです。「自分の姿がわからない人には、神がわからない。神を知らないということさえ知らない。」

この詩篇の詩人は、御言葉によって自分の姿を知った。「どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。」(12節)これが人間の実存なんだ。

そうすると、私たちは思う。「じゃあこの自分の罪、そんなものを持っている私なんか、神様と交われないじゃないか」と。けれども、我が主は、天地を造り給うた創造者である以上に、私のあがないぬしである!

「あがない」というのは「身代わりになる」ということ。旧約聖書の時代は、それで動物を殺した。ところがダビデは、それでは心の奥底にまで赦されたという確信が持てなかったんですね。だから、神様の前に砕かれて、「私は罪人です」とひれ伏した。そのときに何がわかったか?このお方こそが私の罪の身代わりになってくださるということでした。

あの十字架において、私の罪を一切背負って、命を捨ててくださった、あがないぬし。

「罪の払う値は死である」(ローマ6:23)というところに自らが立ってくださった。これが啓示の頂点です。私には失敗がある、すねに傷がある。けれども、彼は、私のあがないぬしになってくださった。今日もこの方が語りかけておられる。他ならぬあなたに。

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