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キリストの貧しさ―その異質な輝きを放つ教会の使命

「宗教改革のはじまりから500年、日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会は、宗教改革を共同で記念します。世界の教会に分裂をもたらした宗教改革の当事者として、祈り、対話し、未来へと歩み出す。」

これは、2017年11月23日に行われた宗教改革500年共同記念礼拝に先立って出された宣言文です。

第二バチカン公会議以降、50年に渡り積み重ねられてきた両教会の対話の実りであり、さらに自らを「教会に分裂をもたらした当事者」と呼ぶこの言葉は、教会の主の痛みに向かい合う信仰者の悔い改めと和解の祈りに他なりません。

その記念の場として選ばれたのが、長崎・浦上。約250年間に及んだキリシタン迫害、そして原爆投下と、この地は不条理と苦難の歴史を刻み続けた信仰者の地です。

FEBCでは「虚しさを選ばれしキリストの道ーもう一つの宗教改革」と題した、宗教改革500年記念特別番組の再放送をお届けしています。
相次ぐ自然災害、そして未曾有の高齢化と人口減少に向かい合わねばならない我が国の教会が、このキリシタンの地、戦禍の地で、500年の時を経て、ただひとりの神を共に礼拝した意味を改めて受け止める必要があると考えるからです。

お話は、カトリック長崎大司教区司祭である古巣馨神父と、東北ヘルプ事務局長として東日本大震災被災地の支援に専心してこられた川上直哉牧師です。
ここではその一部を記事にてご紹介します。

川上直哉師、古巣馨神父
古巣 宗教改革500年を共に祝うということで思い起こすのは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17:21)というキリストの一致の祈りです。しかし、現実にはそれができない惨めな教会の姿があります。だからこそ「浦上で、宗教改革500年を祝ってください」ということなんです。それは、浦上は貧しさの中でずっと押さえつけられてきて、やっと陽の目を見たと思ったら、原爆に遭った。そんな度重なる不条理にもかかわらず、希望を受け渡してきた地だからです。

 この不完全な人間社会の中で、不条理は無くなりません。そもそも聖書の初めに、愛するように神に造られた人間の家族の中で起こるのが、カインとアベルの話です。これも不条理の話ですよね。弟のアベルはのほほんと生きているように見えるのに、兄のカインは汗水たらして働いている。その時にカインは神に「何故ですか」と問うことをしないで、とにかくこの不条理を見たくないと、弟を殺してしまった。
川上 本当にそうですよね。詩編を読むと、耐え難い不条理の中で詩人が何をするかというと、神を問う。問うどころじゃなくて神を呪う。そしてこれが多分、不条理を生きるということの答えなんじゃないでしょうか。それにどういう意味があるかは何とも言えない。ただ、私たちに残されている一つの道は、もう遠慮なく神様に文句を言うことなんじゃないでしょうか。
古巣 そうですね。ですから嘆きの預言者と言われたエレミヤは言うんです。「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。」(エレミヤ12:1)

 預言者というのは不条理の中にいる者の代弁者です。そしてこれは、今日の教会の役割でもあるんです。起こっている不条理な出来事の中に、神の言葉を聴き取ろうとし、神に「何故ですか」と問いかける。そして、答えが与えられた時、それは教義と言うよりも「物語」なんですね。一人ひとりの人生から出てきた答えです。「私が出会った神様は、こういう形で私の人生に関わってくださいました」ということなんです。
川上 その意味で、私は不条理の意味を考える時に、「伝える」って大事だと思うんです。つまり、不条理の意味を「教え」として「こうですよ、わかってますか」なんていうわけにはいかない。「伝える」ことなんです。そして、伝わった場合に何が起こるか。その人自身の言葉になるんですね。伝わったことを自分の言葉として、苦しみの意味を語れるようになる。それ以外に、不条理や苦しみの意味付けをしても意味はないと思います。「教え」た瞬間に別物になってしまうんじゃないでしょうか。

 だから、不条理の中にある人々と生きるために、教会は「現場」に出ていけるかが問われている。東日本大震災の時に東北ヘルプが何かできたことがあったとすれば、教会と教派の外に出た。そこで私たちは「出会った」からこそ、活動できたんです。
古巣 お話を聴いて「今更の出会い」という言葉を思い出しました。私たちは自分の経験を通して人生について「大体こんなもの」と思っています。ところが私たちは「現場」で、もう知っていると思っていた神や仲間たちに今更のように出会い直し、それを死ぬまで繰り返していくんだろうと思うのです。宗教改革も、これは一体何なのかを考えると、自己改革としての「出会い直し」になる。だから、教会も出会い直すために、外に出なければなりません。

 イザヤ書に「わたしたちは粘土、あなたは陶工」(64:7)とあります。私たちは、陶工である神の手の中で形を変えられていくんです。これは、苦しみとはなにかということについてのメッセージだと思います。苦しみは誰もが望んでいないことですが、人生の中に飛び込んできます。そこで人は根本的な選択を迫られ、そこから人生が変わっていきます。高山右近はそういう選択を重ねて行き、戦国時代という競争社会の中での負け組となった人です。しかしその中で彼は自分が受けとめた福音を生きようとした。彼は、貧しさを選んだ神と出会ったんです。それが結果的に彼を「出向かせる人」にしていきます。そして出向いた先には「いと小さき者たち」がいたわけです。

 私たちもそのように「異質な輝き」を放つ人でありたい。それには、どこかでキリストときちんと向かい合って、沈黙の中で耳を傾ける必要があります。私がキリストを追いかけていない限りは、私が神の姿を現すことは無理なんです。日本の教会も「異質な輝き」を放つ存在にならなければと、希望を受け渡してきたこの地・浦上から叫び続けたいと思います。

10月5日・12日の2回に渡り放送>>

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