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存在を裂いて与える

10月からの新番組「裂き与える者の食卓」は、
カトリックさいたま教区司祭の加藤智神父さまと共に、使徒書簡を通して福音書を読み、
主イエス・キリストのご存在へと迫っていく放送です。
そして、このなんとも不思議なタイトルにも、もちろん理由があります。

キリストの前に立つ私の姿を思います。その時に明らかになるのは、あまりにも惨めな私です。しかし、むしろ背き抗っていた者が、復活のキリストに出会って聖霊をいただき、真逆の生涯に生かされてキリストの体とされていく。パウロはこれが全てのキリスト者の姿であり、命なのだと発見した。しかも、彼は「これが他ならぬ私に起こってるんだ」と語るのです。

もちろんこの時、聖霊しか頼るものはありません。だから、聖霊の息吹の中で、御言葉が語られ、パンが裂かれていくのです。パウロにとって、これが教会。

教会とは何か?そこには、色々な説明がつけられると思います。
しかし、何よりキリストの前に立たされて、聖霊の息吹の中で、
御言葉が語られ、パンが裂かれる。これが教会。

そして、神父さまは、マルコ3:13~15の記述において用いられている、
「権能」という言葉の示唆するところを語られます。

「権能」という言葉はエクスウーシアと言い、エクスは「裂く」で、ウーシアは「存在」という意味です。つまり、エクスウーシアは「存在を裂く」という意味です。つまりこの権能をもたらす聖霊とは、まさに存在を裂かれて与えられた御方なのです。「存在を裂く者」それしか人間を真には救えません。これは明らかにキリストの十字架を指し示しています。実に、キリストは私たちに聖霊を与えるために、ご自分の命を十字架で裂かれました。

「存在を裂く者」それしか人間を真には救えない。
惨めさを抱えた私、罪人の私を救い得ない。
そして、教会もその主イエスが身を裂かれるところにしか建ち得ない。

私たちが信仰生活を送る中で、普段見失っている
自らを裂き与えるお方、主イエス・キリストの生々しさ。リアリティ。
この番組では、何よりこのお姿をこそ追い求めていきます。
ぜひ、ご期待ください。

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※後編は10月26日よりお聴きになれます