8-01:写真で味わう「旅の音、心の音」05

凝り固まりを癒やす・上田別所温泉

上田まで来たので、上田電鉄別所線で名湯別所温泉に立ち寄ることにした。
車窓には午後の日差しが差し込む田畑と風になびくススキ。
電車は黄色やオレンジ色に色づく山々に向かって進んでいく。


ほどなく別所温泉駅に到着した。ここから少し歩くことにする。
駅の観光案内に、日本で唯一の八角形の三重の塔が近くにあるとあったので、まずはそこに行ってみることに。

緩やかな坂道を登ると、辺りに漂う硫黄の香り。
さらに少し歩くと、目当ての安楽寺に着いた。
石段がまっすぐ上へと続いている。
登るとその塔は本堂の奥にあった。

鎌倉時代末期の建立の国宝。
細部まで丁寧に装飾が施され、仏教の信仰を少し垣間見る気がした。


寺を出て、また歩き始めると、北向観音堂という寺の参道に出た。
通りには土産物や飲食店。
そこに感じの良い喫茶店があったので、入ってみた。

木と和紙で覆われた電球の温かい光が照らす店内には静かに音楽が流れている。
クリムームあんみつぜんざいをいただく。


温かな空間に癒やされる。
ここで、聖書を開いた。

今日の日課は片手の萎えた人をイエス様が安息日に癒やしたマルコ福音書3章のところだ。
この温泉にも病を癒やすために古くから多くの方が来たことだろう。
では、この人はどうだったのだろう?

安息日の会堂。周りは会堂長はじめ、会堂の面々が並ぶ。
その視線は自分の萎えた手に集中している。
彼らの守るべきものが壊されそうになっているからだ。
この手は、いわばその舞台。
皆の厳しい視線が向けられる、審判の場。
なのに、いやだからか、イエス様はこの人を呼んだ。

マルコが何も語らぬ、この人の思いに心を寄せる。
すると、いたたまれなくなった。


喫茶店を出ると、日が暮れ始めて寒かったので、
3つある共同浴場の一つ「大湯」を訪ねた。
日本家屋のようなガッチリとした佇まい。


中に入り、壁際にある浴槽に浸かった。
白く濁った湯が、ざぶんと溢れ出てる。
「は〜」と思わず声がもれた。
心身が癒される。

しかし、手の萎えたこの人を癒やしたのは、温泉でも、人の温かさでもない。
怒りつつ悲しんでいるイエス様だ。


その時ふと、20代の頃に旅先の教会であった聖餐式の出来事を思い出した。
クリスチャンだとは思われなかったのか、配餐から漏れてしまったのだ。

礼拝後、牧師に挨拶をする中で、そのことに触れたところ、牧師が担当の方を呼んで叱った。
何も怒らなくてもと、とても気まずかった。
その牧師はその後、私のために二人だけで聖餐式を行ってくれた。
忘れ得ぬ出来事だ。


ここで、イエス様も怒っている。
そして、悲しんでいる。
そこまでして、イエス様はご自分の命を与えようとされる。
それは誰のためだろうか。

人は自分を守るため、いっぱい抱えて、凝り固まる。
そうやって身動き出来なくなる。
ファリサイ派だけでなく、この片手の萎えた人も。そして私も。


温泉から上がり、駅に向かうと一面の星空が広がっていた。
体も、心も、不思議と軽い。
イエス様の御心に包まれている気がした。



マルコによる福音書3章1〜6節

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。


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