
まことのぶどうの木・勝沼ぶどう郷駅
電車に揺られ、いくつかのトンネルを抜けると、甲府盆地が見えてきた。
春の暖かな光に照らされた町並みと、それを囲むように連なる山々。遠くには雪の残る南アルプスも見える。

時刻はまだ9時前。
勝沼ぶどう郷駅で降りることにした。
駅名に「ぶどう」とついているだけあって、ホームから周りを見渡すとぶどう畑が広がっているので、少し歩いてみた。

葉はまだなく、その分、普段あまり意識したことのないぶどうの木や枝の様子がよく見える。それほど太くない幹から一定の高さにはられたメッシュ状の針金の上に、枝が横へ横へと広がっている。

遠くからラジオの音がして、ぶどう畑の手入れをしている人たちが見えた。
ぶどうの加工品の売店に入ると、美味しいそうなジュースが目に留まった。
巨峰、ピオーネ、ベリーA。
ちょうど喉がかわいていたので、どれにしようかと少し悩んでいると、店員に声をかけられた。
「先に試飲をしてみませんか」。
一種類ずつ、小さな紙コップで飲ませて頂く。
どれもとても美味しくて、更に悩む。
種類によってこうも味が違うのかと驚き、結局ピオーネとベリーAを注文して、その場でいただき、また店を後にした。

歩きながら口にはっきり残るぶどうの芳醇な香りに、ふとヨハネによる福音書15章の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言うイエス様の有名な言葉を思い出した。
「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。
自分はどんな味の実をつけるのだろうか、と。
巨峰かあるいはピオーネか。はたまたデラウェアだろうか。

そんなことを思いながら、少し聖書を開いてみた。
先ほどの言葉の少し後のヨハネ15章9節にはこうある。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。
以前、この言葉に一体どうやってとどまったらいいのだろうかと思ったことを思い出した。
つい先ほどまで、自分はどんな実をつけるのかと呑気に考えていたのに。
そこで私は、このぶどうの木の喩えを、すでにぶどうの実ができた木でいつもイメージしてきたことに気付いた。
しかし、そこに至るまでには、農家の方の汗と自然の営みがあるのは言うまでもない。

「私」が実らせるぶどうの実の味はどんなだろう。
それは、私の人生の味。
嬉しいことだけでなく、辛いことや思い出したくもないこともあった。
人には言えない苦さもある。
そう考えると自分がどんな実かなどと能天気には言えない。
そう言えば、このヨハネの15章は次の言葉からはじまっている。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。

ああ、そうかと思った。
私たちに以上に、イエス様ご自身が農夫の毎日の働きを必要としているのだと。
そこに注がれるイエス様の思い。
このイエス様につながる枝に実る実は、きっとそれぞれ味が違うのだろう。
けれど、どんな実も、確実にイエス様の味がする。
どんな人生のときにもイエス様がいる。

ぶどうの丘と呼ばれる小高い丘に登って、
春霞でパステルで描いたかにようなやわらかい景色の中に広がる、
手塩にかけて育てられたまだ葉も実もないぶどう畑を見渡しながら、そう思った。

ヨハネによる福音書15章9〜11節
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。







