なぜ神様は聖書の中に恐ろしい聖句を?
初めて便りをさせていただく者です。実は、重大な質問があるのです。「神は愛である」とは、キリスト教世界において常識となっておりますが、果たして本当にそうでしょうか?
私は50年以上前、19歳の時に信仰に入りました。それから2年半ほど経った時に、私は本当に救われているのだろうか?と疑問が起こり、それまでの信仰を完全に否定したところ、心の中が真っ暗になってしまったのです。
その中で私を絶望に陥れたのは、ヘブル6章4〜6節でした。「一度、新生経験した後で、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることは不可能である」と。これは自分のことを言っているのだと…。
これらの聖句がなければ「神は愛である」と言うことができるのですが…そうはとても思えません。神様は一体何の目的で恐ろしい聖句を聖書の中に散りばめておられるのでしょうか。
番組「恵子の郵便ポスト」3/31より
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「今日はハレルヤで十分だ、ああいい響きだ」
私の両親はもう故人なのですが、父は当たり前のように固く仏教徒でした。でもある時、母が認知症的に乱れ、粗暴になったことがあり、息子と私と父と母4人で手をつなぎ、母をなだめつつお祈りしたのです。すると出し抜けに父が、ハレルヤ、いい響きだなあ、心が安定する、と言い出し、まあ!と。「今日はハレルヤで十分だ、ああいい響きだ」というのです。その日はハレルヤを繰り返し唱えました。確かにハレルヤにすべてがこもっていて、ハレルヤで十分。年を召した高齢者には特に?
長く両親のための祈りをしつつ、自分では内心頑固な彼らは無理かなと心の底では思いつつ、最終的に神様御自身が導いてくださったとしか言いようがありません。驚きでした。受洗した私に、まだ若い現役の頃の父はこれ見よがしに仏壇、神棚を整えていたものでした。神様にただお委ねし、神様のなさっているのを見るしか人間にはできないと思わせられました。
番組「Echo of Voices」3/17より
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