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リアリティの喪失

「私はパウロにつく、私はアポロに、ケファに」と、
かつてのコリントの教会は分裂の状態にありました。

カトリック・さいたま教区司祭の加藤智神父様は、
パウロはこれを人間的な問題ではなく、「キリストを主とできなくなってしまう」
深刻な問題だと捉えていた、と語られます。

教会の中で、リーダーシップが求められ、知恵や能力のある人がだんだん目に見える存在になる。でも、キリスト以外の何か別のものが教会を支配する権威になっていないか?そして、それはごく身近な、例えば尊敬のような思いから出るのかもしれません。

「尊敬」というような思いからすらも、むしろ、大きな罪を犯してしまう私たち。
教会といえども人の群れ。ある意味で防ぎようのないものであるからこそ、
この事態は厳しく指摘されつづけるのかもしれません。

そして、だからこそ、神様の側から差し出されたものがありました。

ですから、パウロは御言葉の宣教に加えて聖餐を重んじます。御言葉で語られ、体験されるべき神のリアリティを、パンと葡萄液を頂くことで身に刻む。それは、ヨハネ17章でイエス様が最後の晩餐の説教の結びで祈られたように「弟子たちが私において一つとなるため」です。だからこそ、パウロは教会の分裂を見逃せなかったのですね。

―では、どうして私たちはそこで頂いたはずのキリストのリアリティを失うのでしょうか?

この問い。信仰生活を送っていく中で、誰もが避けられぬはずの…
しかし、いつの間にか避けようとしてしまっている問題であると思いました。
ぜひ、この番組「裂き与える者の食卓」を通してご一緒に主のみ前に出て行きたく願います。

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