「あなたは私をたぶらかした、そそのかしたんだ。」
「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。」(エレミヤ20:7)この「惑わし」というのはオブラートに包んだ翻訳です。むしろヘブライ語では、「あなたは私をたぶらかした、そそのかしたんだ。」という言い方です。
「こんな率直な言葉で自分の召命を表現する預言者は、エレミヤを置いて他にいません。」
と語るのは、日本基督教団美竹教会の左近豊先生です。
けれども彼は率直に語る。祈りの格闘を止めない。通り一遍の出来合いの答えや慰めを拒むエレミヤは、生きている神の言葉との出会いを味わうことになります。そこで明らかになるのは、神の言葉の前では、常に人は滅びの危機に晒されるということ。インマヌエル(神共にいます)というのは、限りある器に超越した存在が入ることだからです。その時、器は破れます。本来神様が人の間に宿るとはそういうことなのです。
このクリスマスを待ち望む時、「インマヌエル」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは
あの幼子イエス様の穏やかで平安なお姿ではないでしょうか。
しかし、エレミヤはそういう人間の見方が非常に一面的で、
一方的でありさえすることを、その「格闘」から私達に示しています。
若き日に召され、以後40年近く神からの厳しい言葉を告げたために故郷から追われ、同胞に疎まれ、命を脅かされ、失意と痛みをその身に負ったイスラエルの民と滅びを共にした預言者。このエレミヤは孤独の淵で一人泣く涙の味を知っています。だからこそ・・・
神が私達と共におられるとは、インマヌエルとは、本来どういうことか。
エレミヤの神との戦いの中から見えてくる特別な希望を、
このアドベントの時、ご一緒に分かち合いたく願います。