「最後の足洗い」
今回の「聴く信仰―『いのち』をいただく御言葉黙想」では、
ヨハネ福音書に記される「洗足」のテキストを読んでいきます。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。…イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(ヨハネ13章1〜4節)
この「すべて」とは何なのか。
それが明らかにされたのが、この場の出来事であったと山内十束神父は語られます。
「それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」(5節)
これは奴隷やしもべの姿であって、どれほど驚いたか…。弟子たちの心に深く刻み込まれたイエスの姿でした。
しかし、イエスは言われます。
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまい」(7節)と。
明らかにされているけれども、わからないこともある。
それは大変もどかしいことです。
知識だけを手に入れて、知ったようなフリをしてしまうこともある私達に
でも、それでよいのか?と、この場面は問うのかもしれません。
私たちは、今わかろうとします。しかし、時が必要なことがある。後になって初めてわかることがあるのです。これを聖書は、希望と呼びます。
「答え」ではなく、希望の応えを求めて。
ぜひ、聖書の言葉をご一緒に黙想し、主イエスが今私達に何を語りかけるか。
そのことを神父さまの導きを通して深めていきましょう。