問いかける響き・雨の会津若松
雨の会津若松。
感染症の研究に命をかけた野口英世が洗礼を受けた地。
今だから、その信仰の原点に少し触れたいと思って、訪れた。
古い町並みから灯油の匂いが漂ってくる。
ああ、何だか懐かしい。
野口英世青春通りを歩くと、「忍 耐」と書かれた彼の銅像が立つ広場に出た。
さらにその先には資料館がある。
幼い頃、手にやけどを負った際に手術を受けた病院を改装した建物だ。
しっとりとした空気に包まれた1部屋だけの小さな資料館。
生前使っていた衣類や日用品などが所狭しと展示されている。
その中で一つの書面に目が止まった。
墨で書かれた「日本基督教会 信徒名簿」。
そこには、名前を変える前の野口清作(せいさく)の文字があった。
彼の信仰についてはよくわかっていない。
資料には、きっかけは外国語を学ぶためとあった。
しかし、300年続いたキリシタン禁制から、まだ20年ほどの会津。
ここで彼はクリスチャンとなり、やがて感染症研究に身を投じていく。
そんなことを思いながら、階下の喫茶店に入った。
コーヒーのよい香りの中で、今日の聖書日課を開く。
盲人バルティマイの癒やしを伝えるマルコによる福音書10章だ。
イエス様の彼への第一声は「何をしてほしいのか」。
それに対して盲人は、「目が見えるようになりたい」と言った。
「憐れんでください」と遠くから叫ぶしか出来なかった彼が、今はイエス様にはっきりと言う。
だから、こそ感じたいと思った。
「何をしてほしいのか」に込められたイエス様の想いを。
そこで、ふと思う。
苦しみ、抱えているもの、もっともふれたくないところ…、それをすべて私に差し出せ…そんなイエス様の想いを感じる。
野口英世はこの言葉をどう受け止めたのだろう。
そういえば、幼い頃のやけどの手術がきっかけで医師を志したとあった。
癒やされた者が癒やす者になっていく。
彼はイエス様と出会い、この地で真に癒やされたのではないか。
喫茶店で、トーストとコーヒーを頂き、店を出た。
せっかくなので、野口英世が洗礼を受けた教会にも行ってみようと思う。
雨は、まだ降り続いていた。
マルコによる福音書10章46〜52節
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。