8-01:写真で味わう「旅の音、心の音」07

魚を食べるイエス・金谷港

どこか遠くへ。無性に、どこか遠くへ…。

そこで、東京湾を横断する小さな旅に出て神奈川県の久里浜港から千葉県の金谷港へ向かうフェリーに乗船した。

前日の遅くまでの仕事がたたり、昼過ぎの出発。
白い船体に赤い煙突と赤いラインの入った「かなや丸」には、人はまばらだった。


せっかくなので、一番前の眺めの良い席で出港を待つ。
大きくなるエンジン音。わずかに船が揺れ、出港だ。この「旅に出た感じ」がいい。


青空と東京湾。遠く見えるのは房総半島。
行き交う船を眺めていたら、あっという間に船はゆっくりと金谷港に着いた。


降り立った金谷港の名物は、アジフライだ。
早速お店に入って、白いご飯、あおさの味噌汁、そしてアジフライの定食を食べる。こんがりと揚げられたアジフライにかじりつく。ああ、うまい。


そういえば、今日の聖書日課でも、イエス様は魚を食べていたっけ。
焼き魚をムシャムシャ食べてみせる復活されたイエス様。それを真面目に書いている聖書に、なんだか可笑しくなった。

まさか、空腹だったわけであるまいし。
なぜイエス様は魚を求められたのだろう。
でも、食べるっていうことは、「生きている」一番の証しだなあ。
そう思いながら、美味しいアジフライを堪能して、店を出た。

聖書には、弟子たちは「喜びのあまりに、信じられない」とも書いてある。
いつもは何気なく受け止めてきたその一言が妙に心にひっかかり、少しその情景を思い巡らした。


眼の前におられるイエス様。
その手足には傷痕がある。
でも、それは見捨ててしまった記憶。
最も触れたくない記憶。
喜びとは無縁の傷痕。

自分は無関係の第三者じゃない。
裏切り者なんだ。
その裏切り者たちの真ん中にイエス様は立っている。
「あなたがたに平和があるように」と言って。


そこで突然、熱い想いがこみ上げてきた。
イエス様が両手を広げて
「私は生きている。ここにいるよ。」って
今この私に語りかけられているように思えた。

ああ、だからイエス様は魚を食べてくださったんだ。
不思議にそう思えた。
それは復活の証明というよりは、裏切り者と一緒に生きる決心のように感じた。

魚とイエス様。
そういえば、魚ってキリスト教のシンボルでもあったなあと思い出しながら、魚を頬張るイエス様を感じて、磯の香りがする金谷の港を後にした。

ルカによる福音書24章35〜48節

二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。

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