
まことのぶどうの木・勝沼ぶどう郷駅
写真で味わう「旅の音、心の音」。
今回の聖書箇所はヨハネ15章の「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」から始まる主イエスの言葉。
この言葉を、実際にぶどうの木と枝を眺めながら黙想する旅をぜひご一緒ください。
キリスト教放送局 日本FEBCの公式サイト
写真で味わう「旅の音、心の音」。
今回の聖書箇所はヨハネ15章の「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」から始まる主イエスの言葉。
この言葉を、実際にぶどうの木と枝を眺めながら黙想する旅をぜひご一緒ください。
特徴―いつでも、どこでも、何度でも
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まずは最新の放送からお聴きくだされば幸いです。
毎月第二金曜日放送の「キリスト信仰としての「終活講座」(再)」
第一回の放送は、カトリック大阪高松大司教区司祭、聖マリアンナ医科大学特任教授の
小田武彦神父にカトリック教会の死生観と葬儀についてお聞きしています。
残念な初メールで恐縮ですが、教えていただきたい事があります。
私は信仰生活を開始して約15年、FEBCとの出会いは約30年になります。私の心に事件が起きたのは、1週間ほど前のことでした。仕事でトラブルがあり、「神様、助けてください。」と心の中で祈りながらの作業だったのですが、結局、自分の思い描いたような助けを得られず、同僚にも迷惑をかけてしまい、短絡的に、「神様なんていない。信仰生活捨てた。」と宣言してしまったのです。このような事は、今回が初めてではなく、私は毎日祈り、聖書を読んで出勤するのですが、会社へ行くと、突然、俗世間の流れにどっぷり浸かってしまうと言うか、些細なことでイライラ、周囲の人間には冷酷な振る舞い、勿論、信仰を持っている者として、心を静めるために、カトリックの十字を切ったりもするのですが、心の中では、神様を否定して自分勝手な振る舞いから脱出することが、出来ないのです。…
困難に直面したとき、神様に心を向ければ、すぐに平常心を取り戻すことが出来ますか?(私には出来ません。)その後、さらに事態が悪化してしまったとき、それでも、神様への信頼感を持ち続けるためにはどうすればよいのでしょうか?(これが一番教えていただきたいこと。)キリスト者の日常生活における基本的な心の持ち方について教えてください。
番組「Echo of voices」4/7より
放送を聴く>>
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思いを言葉にするって難しいですよね。
FEBCのスタッフとお便りを交換しながら一緒に聖書に向かい合い、言葉にならない思いを言葉にしていくユニークな講座です。ぜひ、参加してみませんか?
昨年度、国内献金は前年度比7%減。海外からの献金の割合が約4割に達しました。「その国の伝道はその国で行う」という原則に立つFEBCにとってまさに分水嶺です。この働きは、リスナーお一人ひとりが、FEBCを「わたしのこと」として支援くださるところでだけ成り立つものだからです。
御前にひとり立つ。
キリスト信仰は、あなたと主イエスとの出会い―この私の救い、その喜びから始まります。
ですから、海外からの支援は大きな助けでありながらも、日本の伝道は日本人である私たち一人ひとりの祈りであり続けるのではないでしょうか。
すでにこの重荷を負っていてくださる維持会員を始め、ご支援くださる全ての方に感謝すると共に、この分水嶺の年に新たに自立運営支援献金を広くお願い申し上げます。